「ラブの会」とは?

 私たち「ラブの会」は、1987年上演の『ラヴ』(作・山田太一、演出・鈴木喜三夫)をきっかけに気心を通わせてきた俳優4人の“おしゃべりの会”です。それぞれが演劇の経験を重ね30代後半から40代前半で共演した私たちは、普段は別々の劇団に所属しているにもかかわらず、似たような悩みや思いを抱いていたのでしょうか、意気投合。公演後も芝居に関わった仲間に声をかけては、酒を酌み交わしてきました。
 しかし、この「ラブの会」を中年の男女が公演の余韻に浸って酒を飲むだけの集まりにはしたくない、いつかは『ラヴ』の再演と小品を……と戯曲の研究や上演を目指した稽古をもったりして、模索してきました。そんな折、1996年秋にルネッサンス・マリア・テアトロ支配人和田研一氏の『ラヴ』のような大人の観客を呼べる企画をやりませんかとのお話に、初演から11年を経た98年1月『ラヴ』を再演、「ラブの会」の第1回公演を実現することが出来ました。
 「ラブの会」は、それぞれの所属する劇団の事情が許すかぎり今後も公演を続けるつもりです。私たちの世代にとってそれは必然であり、心からの要求でもあるからです。「ラブの会」の「ラブ」が、戯曲の『ラヴ』と表記が違うのは、『ラヴ』という作品で出会った四人だけれども、そこにとどまることなく自分たちの芝居を続けていこうという決意の表れなのです。



「ラブの会」メンバー

斉藤和子
 劇団新劇場所属

北星学園短期大学卒業後、NHK札幌放送劇団第九期生を経て昭和42年劇団「新劇場」に入団。主演女優として現在に至る。
主な作品「オホーツクの女」(本山節弥)「霰」(水上勉)「旅回り一座江差恋唄」(渋谷健一)「からゆきさん」(宮本研)「岬を駈ける女−中川イセ物語」一人芝居「屯田兵の妻」等。
平成元年 薩摩琵琶二反田岳水会に入門
平成4年 錦心流琵琶全国一水会大会で一位入賞
平成8年 錦心流琵琶の教師免状を得る
琵琶語りという新たな分野に挑戦。「雨月物語−蛇性の婬」「奥の細道」「今昔物語」等にとり組む。



澤口 謙 演劇「向日葵組」主宰

 十八歳の時、劇団にれに入団。北大に入学した歳でした。学生演劇でなく、当時活発だったアマチュア劇団で芝居を始めたことが、今思うと長続きしている原因だと思います。その後、訳あって劇団にれを退団。その後、津川良太氏らと劇団アテルノの結成に参加しました。「赤毛もの」(ネストロイ作・津川良太訳)のティートスなど。同じ頃、能籐玲子創作舞踊研究所でモダンダンスを学ぶべく入門。自らの固い肉体を思い知らされ、固い思考は固い肉体とは無関係ではない、と悟る。その後、演劇「向日葵組」を主宰、今日に至っています。「ひまわり組」は、劇団としてではなく総合的演劇研究所のようなものにしたかったのですが、思うようにはなっていません。子供と演劇を創る「ひまわりジュニア」の公演を二回行っています。'95「ブンナよ木からおりてこい」、'96「幸福の王子」。十年前からは鈴木喜三夫氏の「芝居の仲間」の常連として参加しています。特に印象的だったのは、「映画に出たい」(ニール・サイモン)「早春スケッチブック」(山田太一)「アンネの日記」(ハケット夫妻)など。



竹江維子 劇団十日会所属

アマチュア演劇にたずさわって20数年、その間、高校時代の恩師、橋本栄子氏(現在劇作家として活躍中)永曽信夫氏(元俳優座養成所で俳優の育成に携わる)の指導を受ける。
劇団十日会の公演の他に他劇団への客演、プロデュース公演への参加も多い。
1985年、モナコに於ける世界アマチュア演劇祭で招待作品として詩劇「大白鳥」を上演、好評を博する。1992年には、全国アマチュア演劇大会で一人芝居「花いちもんめ」(宮本研)を上演。
山田太一作/鈴木喜三夫演出作品としては「ラヴ」「河の向こうで人が呼ぶ」に出演。
その他、主な舞台に、「映画に出たい」(ニールサイモン)、
「氷点」(三浦綾子原作/ちばくにこ脚色)、「アンネの日記」(ハケット夫妻)等がある。



舛井正博 芝居のべんと箱代表

1948年生。苫前郡羽幌町出身。
福岡現代劇場、劇団さっぽろを経て、現在に至る。芝居のべんと箱公演の演出のほとんどを担当、'88年旗揚げ公演「寿歌」(北村想)、'91年「精霊流し」(岡部耕大)、'93年「魚の祭」(柳美里)、'97年「ソープオペラ」(鈴木裕美、飯島早苗)など作品多数。
べんと箱以外の仕事として、人形劇や合唱団の構成劇、大道芸等の演出。演劇研究所、高校、専門学校、各サークルなどの講師をしており、演劇、人形劇のコンクールの審査員も務めている。
また役者として三年に一度程度舞台に立つ。鈴木喜三夫演出作品には常連として参加、「河の向こうで人が呼ぶ」(山田太一)、「アンネの日記」(ハケット夫妻)など。


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