観劇日不明

○40代 女性
 内容が飛躍しすぎのような気もしましたが、おもしろかったと思います。あの位の広さっていいですね。観客も一体となれて。ただ横と前の方がごそごそしていて気が散っていまいちでしたけど−。

○40代 男性
 芝居についての感想を一言でいえば、それなりに楽しめた、というのが一番、妥当なところでしょうか。
 芝居そのものは、初演(見ていません)が1987年だから、もう11年前、その当時は最先端というか、社会現象だった「スワッピング」が、「愛」を描くための重要な素材として取り上げられています。どこかずれているいうか、古くさい気がしないでもありません。勿論、人間の根本的な営みに変わりはないし、「愛する」というもっとも根元的な部分のさらに根本の部分に変化があるはずはないと思います。ただ、そのアプローチの仕方というか、捉え方、その表現方法に違いがあるだけでしょう。
 さしずめ、今なら「援助交際」がそれに当たるのでしょうか。そして、それをテーマにした芝居を10年後に見れば、きっと馬鹿クサイと思ったり、何でこんなくだらない事をしているのかとか、どうしてこんな事で悩まなければならないのかと思ったりするのではないでしょうか。
 しかし、「愛する」という行為、精神の問題は、きっと変わっていないと思います。その時に一夫一婦制が堅持されているかどうか、それは知りませんが。
 愛とは独占欲であり、その独占欲のために喜びを感じるはずです。しかし、一体いつからその独占欲が。喜びから苦しみ、煩わしさ、苦痛、果ては嫌悪に変わるのでしょうか。そして悲しいことにどんな感動も永遠ではない。永遠と感じることはあっても、それは刹那でしかない。その刹那を断続的につなげていけるかどうか。
 そのために、時々、パートナーに向かって「愛しているよ」とささやき、告白するべきなのだ、そう山田太一は言いたいのでしょう。
 山口百恵の裸に三浦友和が反応しないのは、彼らが夫婦だからだというのは、正しい見方だと思います。しかし、その前に反応した時代があったという事もまた事実です。それでは、その反応時代を取り戻すためにどうすればいいのか。10年前に考え出されたのが「スワッピング」という手法でした。だが、考えてみればこれは当時としては衝撃的な方法だったかもしれませんが、所詮、4人の中で完結してしまいます。それも顔見知りの間であれば、一種、調和のあるというか、引き返すことのできる安心感がある手法だったはずです。ところが、それから10年経って、いまやそんな身内の行為でなく、もっと大きな、いうなれば完結していない輪の中での行為へ発展していきました。援助交際もそうでしょう。そのうち、行きずりのそういう行為が当たり前として成り立つかもしれません。バーみたいなところに、夫婦で行って、そこで適当な相手を見つけて行為に及ぶ。それが反応時代を取り戻すためだとしても、そうなった場合、夫婦とは一体、何でしょうか。私にはそれに答える資格はありません。
 ただ言えることは、思い出、それも共通した思い出というものは、とてつもなく大きな重みを持つ、重要なものだということ。その思い出の数、もしくは量が大きな人ほど豊かで、幸せなのではないでしょうか。

 三浦、山口という素材は、当時としてはタイムリーであったかもしれませんが、やはり古色を帯びた観は否めません。もう少し前なら、神田正輝、松田聖子でしょう。このカップルは、ご存じの通り別れました。反応しなくなれば、打算が成り立たなくなれば、倦怠を感じれば別れるのです。この当たりも既に時代は三浦、山口時代とは違うということでしょう。今なら、安室奈美恵とサムでしょうか。この年齢の離れたカップルが、ある意味で時代を象徴しています。
 最近のテレビコマーシャルを見ていて驚くことの一つに、年の離れたタレントが夫婦を演じていることです。その共通点は、必ず夫が年上だということです。
 新しい脚本は、この年の離れたカップルのその後を描くことで、愛と年齢は無関係なのかどうかという問題に触れることができると思います。少なくとも、『ラヴ』においては、二組の夫婦とも、年齢的には近しく、ともに老いていきます。そのスピードは多少のズレはあっても、殆ど同じです。「おまえも老けたな」という台詞が言える訳です。しかし、例えば10歳以上、一回りも離れた夫婦の場合、肉体的衰えの時間差は決定的に違います。それをどうやって乗り越えていけるのか。ただ「愛しているよ」というささやきだけで乗り切ることができるのかどうか。
 たとえば、相手の不倫をそれこそ積極的に評価する時代が来るかもしれません。精神的な結びつきのために、肉体を甘んじて譲ることがあるかもしれない。そういう商売が、仕事が成り立つ時代が来るかもしれない。そうなったときの「愛」とは何なのでしょうか。

 『ラヴ』は、少し残酷な芝居です。一組の夫婦が死ぬ訳ですから。しかし、山田太一の芝居は本質的に明日につながる、希望を捨てない芝居です。少なくとも、この舞台の上では、主人公の夫婦は危機を乗り切ってやり直していくような明るさがあります。そこがチェーホフと決定的に違う点でしょう。チェーホフの芝居には、静かな絶望的な明るさしかありません。しかし、この山田太一の芝居には、それはありません。少なくとも、私は感じることはできませんでした。演出家の狙いもその辺にあったと思います。
 でも、例えば、舞台が暗転した後、最後に酒浸りになっている妻を見せたり、若い女に狂っている夫見せたりしたら、どうでしょうか。私には何かその方が、鬼気迫るリアリティがあるような気がしないではないのですが。それは余りにペシミズムというものでしょうか。

 芝居の冒頭、息子と父親のやりとりがありますが、私には長く感じられました。無駄といっても良いかもしれません。パジャマ姿でゴルフに興じる父親というのは、あまりに臭い図式に思えてなりません。二人の会話も陳腐です。二組の夫婦のアンサンブルはそれなりに良かったと思います。経験と時間の流れを感じさせます。ただ、息子の恋人役の女性は、ひとり突出していたと思います。一生懸命演じているのはわかるのですが、演じているというのがわかってしまっては、役者として合格点とは言えないと思うのです。オケでいえば、一人だけ強く吹きすぎている気がするのです。言葉が、台詞が空回りしてしまっているのです。役者にとっては、何度も言った台詞でも、私には初めてなのです。時に聞き取れないことがありました。

●60代 男性
 以前から山田太一のファンで、テレビドラマは欠かさず観ています。
 芝居は初めてで、興味を持ちました。結末が「シャツの店」と同じだったのが印象的でした。
 出演者はみな芸達者で感心しました。

戻る