豊平(とよひら)の歴史


「とよひら人(びと)」がつくってきたまち



 とよひらの歴史(れきし)といえば、まず志村(しむら)鉄一(てついち)の名前がうかびます。「とよひら人(びと)」の第一号といえます。
 安政4年(1857)、幕府により札幌越新道が開削され、豊平川の渡船場に志村鉄一が通行屋といて定住したことに、私たちのまちのの歴史は始まります。でも、志村鉄一が札幌のまちづくりの先駆者だったことは意外に知られていません。彼は判官・岩村通俊の命により札幌のどこに何を置くかという、いわばハード面を、定山渓の開祖として知られる定山坊などとともに考えたといわれています。
 その後、明治4年(1871)3月に岩手県から59戸が平岸に、同じく岩手県から49戸が月寒に入植し、とよひらの本格的な開拓が始まっていきます。翌年に月寒村と平岸村が、同7年に豊平村が合併し新しい豊平村となり、同41年6月に豊平町となったのです。同43年に現在の豊平地区が旧札幌区に編入されました。
 昭和36年(1961)5月に豊平町はさっぽろしと合併、同47年4月、札幌市が政令指定都市となるのに伴い豊平区が誕生しました。そして平成9年11月、行政サービスの一層の充実のため清田区を分区し、現在の豊平区になっています。
 開拓当時から現在に至るまで、とよひらは交通の要所という一面を持っています。とよひらは室蘭街道(現国道36号線)や市電豊平線、定山渓鉄道など、人と物資の集積地として栄えてきました。
 また、産業では今の豊平地区では明治20年代の農機具や馬具、蹄鉄鍛冶、明治後期から大正にかけての練乳、醸造、木工、鉄工などの製造業、平岸地区では明治中期から昭和30年代までリンゴの栽培が興隆し、世界各地へ輸出されていました。今はまちのイメージとして定着しています。こうした産業の隆盛によって人が集まり、商業も幹線道路沿いに発達し、現在も歴史ある商店街としてまちの生活に根づいています。
 歴史の街・とよひらが開墾されて150年になろうとしています。私たちは、歴史に名を刻んだ人々だけでなく、この土地を愛し、このまちをつくってきた、たくさんの市井の「とよひら人」の存在を忘れずにいたいと思います。

「とよひら人」がつくっていくまち

 現在の豊平区も、やはり交通の要所です。市電豊平線や定山渓鉄道は廃止されましたが、豊平橋を経て市内中心部へ通じる国道36号をはじめ、中央区、南区との間にいは合計7本の橋につながる幹線道路が走っています。地下鉄では南北線3駅、東豊線5駅など、生活の足も十分。ただ、こうした利便性ゆえ「通過されるまち」「住むだけのまち」になっている側面もあり、昔のように人や物や情報が集まるまちにしていくことが、まちの大きな課題となっています。
 また、このビジョンで、これからのまちづくりの軸と考えている学術・文化・スポーツ・交流に関する施設の充実ぶりや八こう学園などの専修学校、農業試験場などの研究機関、歴史を今に伝える史跡や郷土史料館、サッカーのワールドカップが開催される全天候型多目的施設(ドーム)の建設、国際的な交流施設など、まちを歩き、まちを楽しむポイントが随所にあります。
 産業の構造は卸・小売業、飲食店、サービス業などの第3次産業が全体の76パーセントも占めています。区内11の商店街はまちづくりにも熱心で、昔も今も、そしてこれからもまちには欠かせない存在です。
 しかし、こうした姿はまちの一面です。立体的なまちを形づくるのは、やはりそこに暮らす人、そう、みなさんなのです。開拓当時から現在まで、たくさんの「とよひら人」がまちをつくってきたように、これからのもたくさんの「とよひら人」がまちをつくっていくのです。