1、西岡のあゆみ

開拓のころのようす

掘込み(ほりこみ)小屋

 西岡に開拓の足あとがしるされたのは、明治二十一年(1888)の秋のことでした。福井、兵庫(ひょうご)の二県から十二名の人たちが、遠く海をわたって、クマザサや、大木におおわれていた西岡にやってきました。
 この土地に着いてまずはじめのしごとは、住む家をつくることでした。満足な道具や材料もありませんでいたが、どうにか雨や風をふせげる小屋をつくるために、近くのてきとうな木をきりたおし、ほねぐみを作りました。やねや、まわりのかこいには、クマザサ、カヤ、木の皮などをあつめて使いました。入口には、むしろを一枚さげておくよいう、そまつなものでした。なかは土間で、ゆかに草をしき、その上にむしろをしいて休みました。土間のまん中に、巾(はば)1.5メートルほどの穴をほり、炉にしました。夏はブヨやカにせめられ、冬はすき間からふきこむ雪と寒さで大へんでしたが、夜は昼のあいだのはげしいつかれで、ぐっすりねいってしまったそうです。

掘り込み小屋  「西岡部落史」昭和33.11による



開拓の苦労(くろう)

 入植の翌年(よくとし)春、開拓のくわがふりおろされました。
 大木を切り倒し、竹や草を焼き払い、手起こし(ておこし)で開こんにはげみました。
 そまつな家に住み、毎日はげしい労働(ろうどう)で、衣服(いふく)なども、すぐにやぶれてしまいます。しかし、すぐに買えるような店も近くになかったので、とても不便でした。はきものは「わらじ」で、一日の仕事のあと、自分で作ったそうです。
わらじ


そのころの生活

 毎日、生活していために、たきぎを切り、木炭をつくりました。たきぎは、六十センチ位の長さに切り、直径(ちょっけい)三十センチ位のたばにしました。それを三把(ば)から、五把(わ)位せおったそうです。
 木炭は、十五キロ位はいった俵(たわら)を、二俵(ひょう)せおい、何キロもある道を歩いて、まちへ売りに行きました。一日に二回往復(おうふく)するいっしょうけんめい働いて、それで得た(え)お金(十五銭から三十銭)で、米、みそ、塩、しょう油などを買いました。
 冬の間は、春に開こんする場所の立木を切り、たきぎや木炭をつくり、春はワラビ、フキ、ゼンマイなどを売り歩いたそうです。


食料

 そのころの食べ物は、自分が苦労して切り開いた畑からの収かく物、馬れいしょ、トウモロコシ、カボチャ、大豆などでした。主食として、米三分(ぶ)と麦七分(ぶ)、または粟(あわ)、トウモロコシ、イナキビ、カボチャ、馬れいしょ等(など)のまざったものを食べていました。まだ、この頃の北海道では、米がつくられていませんでしたので、広東米(かんとんまい)とよばれた外米(がいまい)を買うしか方法がありませんでした。米の入っていたズック袋(ぶくろ)をカント袋とよび、冬はこの袋を足にまいたり、オーバーのかわりに使ったということです。
 西岡で水田が開かれ、米が作られるようになったのは、明治四十三年(1910)になってからです。


衣服

 今のように自由に買うわけにはいかず、そまつなものでした。
 メクラジのモモ引き、メクラジのシャツ(紺の木綿地)、を着ましたが作業服として、ハンチャ(はんてん)をはおり、帽子のかわりにほおかぶりや、三角ぼうしをかぶりました。足にははいた物として夏はワラジ、冬はゴンベ、コスケ、ツマゴ、ワラ造り(づくり)のキャハンをし、カント袋を足にまくなどしてすごしました。
はきもの



電燈

 私達の生活の中で、電気はなくてはならないものですが、西岡では、長い間、暗いランプで、不便な生活をしていました。
 昭和八年(1933)に「電気をつけよう」という声がおこりました。
 その後何度も運動を続け、やっと昭和二十一年(1946)になって、大部分の家庭に電燈がつくようになりました。しかし、油沢(あぶらさわ)の奥の方はまだで、全家庭に電燈がつくようになったのは、昭和三十五年(1960)になってからです。


道路

 開拓のころは、なったくの未開地で、けもの道といわれる、鹿などの動物の通り道だけでした。入植する人がふえるにつれて、道の両側の笹(ささ)や柴(しば)をかり取り、はばが広げられました。明治二十四年(1891)には馬車が通れるようになり、排水(はいすい)をよくし、でこぼこが直(なお)され、やっと道路らしくなったのは、明治二十七年(1894)になってからでした。農作物や色々な品物を運ぶために毎年直され、現在市営バスが通っている道路が平岸まで開通したのは、明治四十四年(1911)のことです。
 現在、道路はほとんど舗装(ほそう)され、車の量も多くなり、西岡の道路はその姿を大きく変えています。
フレッティ大丸付近(昭和20年頃)